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【プロスピA】ワイよりVロード周回してる奴おる?【画像】

261: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:08:09.71 ID:pycpBQotH
ワイの周回数見てよ
no title

 

265: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:08:31.88 ID:zS8Z2BCP0
>>261
すごい

 

266: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:08:44.77 ID:3qpz5nXbp
>>261
レベルヤバすぎ

 

267: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:08:48.45 ID:iDK33Hj9a
>>261
ヒエッ…

 

268: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:08:49.26 ID:fjWq44kB0
>>261
ヒェ…

 
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269: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:08:50.24 ID:AWDp5CMda
>>261
グロ
ニートの末路

 

272: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:09:07.63 ID:TEuYpUTWM
>>261
レベルどうなっとるんや

 

285: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:10:26.75 ID:xEyplpBs0
>>261
思ってたより全然やばくて草
そういえば最近難易度追加されてないな

 

286: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:10:26.78 ID:52AWjlMnd
>>261
しゅご

 

303: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/04(月) 14:12:41.81 ID:1LbxvFwW0
>>261
育成する選手だけでやろうとすると、五つ星が限界で6つ星以上だとボロボロにされるわ

 




573573: プロスピAおすすめ記事 573/05/73(火) 05:07:03.00 et

引用元: http://hawk.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1512361383/

『【プロスピA】ワイよりVロード周回してる奴おる?【画像】』へのコメント

※画像がある場合はクリックする事で拡大表示されます
  1. アアアァァ( °∀°)ァァアアア : 2017/12/04(月) 22:21:41 ID:kzMDYxMjE

    今回はちょっと重~く、そして結構長~い話しになります。

    気がしずみそうな写真ものせるから、嫌な人は見ないでね、、、

    といいたいところだけど、もしこの歴史的惨劇を知らないのであれば是非見ていってほしいな。

    まずは、この人をご存知でしょうか?

    何の特徴もなさそうなこのオッサンの名前は 『ポルポト』

    今日書く話の主人公。

    今から30年ちょっと前のこと、今のカンボジアはこのポルポト率いるクメール・ルージュに支配された『民主カンプチ
    ア』という名前だった。

    このポルポト政権が始まってから、ベトナム軍とカンボジア救国統一戦線(ベトナムに亡命した反ポルポト派)に解放されるまでのたった4年間で、なんと総人口800万
    足らずのうち、200万から300万近くのカンボジア人が虐殺された、、、。

    人数は正確には今もわからないらしい。

    30数年前といえば、日本ではピンク・レディーが大旋風を起こし世界ではパソコンが一般化されはじめたような時代。

    後にも先にも、たった四年でこのような強制労働、大量虐殺、拷問、破壊、が行われた国はカンボジアを除いてどこにもない。

    僕は何年か前にこの話を知って、カンボジアにきたら必ず行こうと思っていた場所があった。

    『トゥールスレン刑務所』

    今は博物館になっていて、当時の建物のまま、写真などが展示されている。

    アウシュビッツや広島原爆ドームのような負の遺産の類だね。

    プノンペンに着いた初日に行ってきた。

    ここはポルポト政権時代に 無実の罪 で捕まった人達を収容するための刑務所だった。

    当時は『S-21』とよばれていた。

    もともとは高校だったみたい。

    中に入り、建物をまわってみることにした。

    “A”とかかれた建物にまず入ってみた。

    入口に、喋るな!と注意書きがあったけど、ここで楽しく喋れる人なんかいないと思うけど、、、

    各部屋には鎖がついたベッドがぽつんとあった。

    ここは特別な牢獄だったみたい。

    壁には発見当時だと思われる写真が一枚。

    いろいろと、しなくてもいい想像をしてしまい、いろんな思いが込み上げて来る感じだった、、、。

    何故なら、ここで実際に拷問、虐殺があったと思うとね、、、

    外にあった『victim’s graves』と題されたこの看板にはこんなことが書いてある。

    『犠牲者の墓』
    犠牲者14人の死体は、カンボジアの解放の為の救国統一戦線によって建物”A”から発見された。
    犠牲者は、ここの反対側のプロットに埋葬された。
    14人の死体の中には女性の犠牲者も一人いた。
    これらは、S-21のエージェント達が刑務所から逃げ出す前
    最後に実行されたものだった。

    この刑務所には無実の罪で20000人も収容されたけど、生きて出れたのはなんと7人だけ、、、。

    発見当時は最後に殺された14人の死体の他にも50人ほどの死体があった。

    S21が生きては出られない収容所となった理由は

    「収容された囚人は有罪と決まってる→拷問し嘘の供述をさせて処刑する→S21の拷問と虐殺が外にばれないように、何が何でも有罪にして処刑→さらに拷問が激化する」

    この超悪循環があったそう。

    理解に苦しむこのトゥールスレン刑務所とポルポト政権。

    何故自分の国の人を殺す? この人達は何故捕まった?

    と疑問が湧きまくりだと思うので、説明します。

    まずはポルポト政権になるちょっと前の話から。

    時代はベトナム戦争の頃。←これ大事

    当時、この国のトップだった シアヌーク という人がいました。

    彼はフランスに占領されてたカンボジアを独立させて国王になり、カンボジア王国をつくりました。

    このカンボジア王国は『社会主義』だったんだけど、それをアメリカはよく思ってなかったんだよね。

    カンボジア王国が出来てから、10数年後アメリカと手を組んだ当時の首相が、シアヌークがいない間にクーデターを起こして政権を奪ってしまう。
    そして国名はクメール共和国になった。

    でもさらに数年後、アメリカがベトナム戦争に負けて完全撤退することになったと同時に、バックがいなくなった新政権はたちまち崩壊してしまった。

    その頃、国民の支持を結構獲得してたのがポルポト率いる クメール・ルージュ だった。

    そして1975年4月17日、 ポルポトは新しく政権を握り、4年間恐怖と殺戮がこの国を支配することになった。

    この日、クメール・ルージュはトラックに乗って首都プノンペンに入って来た。

    ついに、内戦が終わったと信じた国民は、彼らを笑顔で迎えたらしい。

    でも、そのあと数日もしないうちに都市部の人達は、田舎へ移らされて強制労働させられることになった。

    ほかの国からの支援がないもんで、ポルポトはすぐに食料確保したかったかららしい。

    そしてプノンペンは人がいなくなり、工場、交通、店、何もかもストップし、ゴーストタウンと化した。

    その時の写真も展示してあった。

    そしてある日、その農作業をしている人達に知らせがいった。

    「医者・教師・技術者・学生だった者は、国の再興を手伝ってほしい」

    農作業から解放される!
    と、該当する人々はみんな手を挙げました。

    でも彼らを待っていたのは処刑
    二度と帰ってくる人はいなかったそうです。

    海外留学していた学生も、同じく呼び寄せられて殺された。

    何故そんなことになったかというと

    ポルポトが目指していたのは『 原始共産主義社会』
    という社会。

    超簡単に言うと、全て無くして原始時代に戻そうってもの。

    病院も、学校も、通貨も、恋愛も、家族もすべて無くす。

    めちゃくちゃ過ぎてもはや意味わかんないよね(^^;

    反対するものはもちろん殺されたけど、真っ先に殺されたのが先生や医師などの『反対勢力になりそうな知識人』

    次第にエスカレートしていって本を読んでた、旧貨幣を持ってた、子どもに教育した、腕時計をしてた、英語を話した、政府の悪口を言った
    このような人もすべて刑務所に連れられて殺されました。

    さらに歌をうたった、恋人がいる、眼鏡をしている、イケメン&美女 全員殺された。

    もうめちゃくちゃすぎて、今の日本だったらみんな殺されてそうですね、、、

    ポルポト政権が言った言葉。

    我々は独自の世界を建設している。
    新しい理想郷を建設するのである。
    したがって伝統的な形をとる学校も、病院も要らない。
    貨幣も要らない。
    たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
    今住んでいるのは新しい故郷なのである。
    我々はこれより過去を切り捨てる。
    泣いてはいけない。
    泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
    笑ってはいけない。
    笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ

    ポルポトは「悪い」思想に染まっていない13歳以下の子供達を社会の重要なポジションにつけた。

    原始共産主義を理解してくれるから。

    強制収容所の看守も子供、兵士も子供。

    医師も子供だった。

    子供医師の中には、字も読めないような子供もいた。

    医療の知識もあるわけなく、消毒もせず注射をしたり、手術すら行うこともあった。

    あとはご想像にお任せです、、、(^^;

    ポルポトは密告制度を設けて、スパイも子供にやらせた。

    ポルポト政権の不平や不満を聞いた子供が、通報したら身に覚えがなくても捕まって殺される。

    捕まった人達は刑務所におくられ、自白するまで拷問される。

    罪なのかなんなのかわからない事を自白させられ、殺される。

    自白させられたら、カンボジア国内に何カ所もある『キリングフィールド』へ連行されて、子供は木に打ち付けられ、大人は銃や棒で殴り殺され、穴に捨てられた。

    ↓キリングフィールド行ったときの記事。

    カンボジアに初めて来て感じたこと

    こうして子どもが大人を常に監視する世の中、 常識、理性などなにもなく、誰も信じることが出来ず、密告に怯える。

    そんな社会になった。

    国民の生活は、農作業など、ただ黙々と働き続けることだけだった。

    そして、四年後。

    ポルポトがベトナム領内を攻めて住民を虐殺したのをきっかけに、カンジアから亡命してきた人々が カンプチア救国民族統一戦線 という軍を作り、ベトナム軍と一緒にカンボジアに攻め込んだ。

    子供兵士はあっさりやられてしまって、1979年に首都プノンペンが陥落。

    これでポルポト政権の地獄のような四年間が終わったわけです。

    その時のカンボジア国民の85%が14歳以下の子供だったそう。

    ちなみにこれが2005年ね。

    どのくらい異常なのかわかると思う。

    館内は当時の牢獄がそのまま残されてる部屋や、ここに収容されて虐殺された人達の顔写真がたくさんあった。

    中には殺された直後の写真もあったけど、とても撮る気にはなれなかった、、、

    写真ずらっと、本当たくさん並んでる。

    それだけ多くの人がここで犠牲になったってことだね。

    今現在でも、当時身内の誰かを無くしてるって人はとてもたくさんいるみたい。

    もちろんたった30数年前の話しだからね、、、。

    当時少年兵士だった人達も今は50歳くらいのはずだよね。

    少年兵の写真と証言もあった。

    生き残った人達だって、いまは笑顔で話しかけてくれるトゥクトゥクのオッサンだって

    心の奥そこには、ぜったい忘れられない当時の悲しみとかがあるんだよね、、、

    出口付近には本物の骨がキレイに並べられてた。

    何で今回ちょっと真面目に書いたかというと

    そもそも何で負の遺産と言われるものがあるのか?

    きっとこれを無くしたら、人間ってまた同じ事を繰り返すんだろうね。

    それから、どうしてここまで残酷なことが出来たんだろうね?

    答は”集団心理”というものらしい。

    人間は集団になればこんな恐ろしい事でも平気でできるようになるんだね。

    日本でさ、炎上だ!バカッターだ!

    なんてネットやTwitterでビシバシ叩く人達を見てると、なんか似てる気もしないでもないよね。

    日本でこんなこと起こるとは思わないけどね(^^;

    それと、もともと僕は歴史的なことが好きだから、このことは知っていたけど

    知らない人も、もちろんいたと思うんだよね。

    それと、ポルポトが残したものの一つに『地雷』がある。

    『完全な兵士』と称賛して、しかけまくった地雷の被害で手足がない人が多いのも事実。

    当時の事を学校で習わない子供達が今でも被害にあうのもまた事実。

    たった一人の危ない思想が渦巻くように国を飲み込み、集団心理で同士が同士を殺した。

    結果たくさんの人が死に、たくさんの障害を後世に残した。

    その上で今のカンボジアは成り立ってる。

    この歴史を知ってここに来るのと、知らずに来るのはきっとすごく大きい差があるように思う。
    今がいいとか悪いとかじゃない。

    まずは知ることが大事だよ。なんでもそう。

    知らなければ行動も出来ないからね。

    調べたらもちろんいろいろ出てくると思うけど、まずはこの記事がひとつのきっかけになってくれて、カンボジアに興味を持ってくれたら嬉しいな(^^)
    長々とありがとうございました★


  2. アアアァァ( °∀°)ァァアアア : 2017/12/04(月) 22:21:58 ID:kzMDYxMjE

    今回はちょっと重~く、そして結構長~い話しになります。

    気がしずみそうな写真ものせるから、嫌な人は見ないでね、、、

    といいたいところだけど、もしこの歴史的惨劇を知らないのであれば是非見ていってほしいな。

    まずは、この人をご存知でしょうか?

    何の特徴もなさそうなこのオッサンの名前は 『ポルポト』

    今日書く話の主人公。

    今から30年ちょっと前のこと、今のカンボジアはこのポルポト率いるクメール・ルージュに支配された『民主カンプチ
    ア』という名前だった。

    このポルポト政権が始まってから、ベトナム軍とカンボジア救国統一戦線(ベトナムに亡命した反ポルポト派)に解放されるまでのたった4年間で、なんと総人口800万
    足らずのうち、200万から300万近くのカンボジア人が虐殺された、、、。

    人数は正確には今もわからないらしい。

    30数年前といえば、日本ではピンク・レディーが大旋風を起こし世界ではパソコンが一般化されはじめたような時代。

    後にも先にも、たった四年でこのような強制労働、大量虐殺、拷問、破壊、が行われた国はカンボジアを除いてどこにもない。

    僕は何年か前にこの話を知って、カンボジアにきたら必ず行こうと思っていた場所があった。

    『トゥールスレン刑務所』

    今は博物館になっていて、当時の建物のまま、写真などが展示されている。

    アウシュビッツや広島原爆ドームのような負の遺産の類だね。

    プノンペンに着いた初日に行ってきた。

    ここはポルポト政権時代に 無実の罪 で捕まった人達を収容するための刑務所だった。

    当時は『S-21』とよばれていた。

    もともとは高校だったみたい。

    中に入り、建物をまわってみることにした。

    “A”とかかれた建物にまず入ってみた。

    入口に、喋るな!と注意書きがあったけど、ここで楽しく喋れる人なんかいないと思うけど、、、

    各部屋には鎖がついたベッドがぽつんとあった。

    ここは特別な牢獄だったみたい。

    壁には発見当時だと思われる写真が一枚。

    いろいろと、しなくてもいい想像をしてしまい、いろんな思いが込み上げて来る感じだった、、、。

    何故なら、ここで実際に拷問、虐殺があったと思うとね、、、

    外にあった『victim’s graves』と題されたこの看板にはこんなことが書いてある。

    『犠牲者の墓』
    犠牲者14人の死体は、カンボジアの解放の為の救国統一戦線によって建物”A”から発見された。
    犠牲者は、ここの反対側のプロットに埋葬された。
    14人の死体の中には女性の犠牲者も一人いた。
    これらは、S-21のエージェント達が刑務所から逃げ出す前
    最後に実行されたものだった。

    この刑務所には無実の罪で20000人も収容されたけど、生きて出れたのはなんと7人だけ、、、。

    発見当時は最後に殺された14人の死体の他にも50人ほどの死体があった。

    S21が生きては出られない収容所となった理由は

    「収容された囚人は有罪と決まってる→拷問し嘘の供述をさせて処刑する→S21の拷問と虐殺が外にばれないように、何が何でも有罪にして処刑→さらに拷問が激化する」

    この超悪循環があったそう。

    理解に苦しむこのトゥールスレン刑務所とポルポト政権。

    何故自分の国の人を殺す? この人達は何故捕まった?

    と疑問が湧きまくりだと思うので、説明します。

    まずはポルポト政権になるちょっと前の話から。

    時代はベトナム戦争の頃。←これ大事

    当時、この国のトップだった シアヌーク という人がいました。

    彼はフランスに占領されてたカンボジアを独立させて国王になり、カンボジア王国をつくりました。

    このカンボジア王国は『社会主義』だったんだけど、それをアメリカはよく思ってなかったんだよね。

    カンボジア王国が出来てから、10数年後アメリカと手を組んだ当時の首相が、シアヌークがいない間にクーデターを起こして政権を奪ってしまう。
    そして国名はクメール共和国になった。

    でもさらに数年後、アメリカがベトナム戦争に負けて完全撤退することになったと同時に、バックがいなくなった新政権はたちまち崩壊してしまった。

    その頃、国民の支持を結構獲得してたのがポルポト率いる クメール・ルージュ だった。

    そして1975年4月17日、 ポルポトは新しく政権を握り、4年間恐怖と殺戮がこの国を支配することになった。

    この日、クメール・ルージュはトラックに乗って首都プノンペンに入って来た。

    ついに、内戦が終わったと信じた国民は、彼らを笑顔で迎えたらしい。

    でも、そのあと数日もしないうちに都市部の人達は、田舎へ移らされて強制労働させられることになった。

    ほかの国からの支援がないもんで、ポルポトはすぐに食料確保したかったかららしい。

    そしてプノンペンは人がいなくなり、工場、交通、店、何もかもストップし、ゴーストタウンと化した。

    その時の写真も展示してあった。

    そしてある日、その農作業をしている人達に知らせがいった。

    「医者・教師・技術者・学生だった者は、国の再興を手伝ってほしい」

    農作業から解放される!
    と、該当する人々はみんな手を挙げました。

    でも彼らを待っていたのは処刑
    二度と帰ってくる人はいなかったそうです。

    海外留学していた学生も、同じく呼び寄せられて殺された。

    何故そんなことになったかというと

    ポルポトが目指していたのは『 原始共産主義社会』
    という社会。

    超簡単に言うと、全て無くして原始時代に戻そうってもの。

    病院も、学校も、通貨も、恋愛も、家族もすべて無くす。

    めちゃくちゃ過ぎてもはや意味わかんないよね(^^;

    反対するものはもちろん殺されたけど、真っ先に殺されたのが先生や医師などの『反対勢力になりそうな知識人』

    次第にエスカレートしていって本を読んでた、旧貨幣を持ってた、子どもに教育した、腕時計をしてた、英語を話した、政府の悪口を言った
    このような人もすべて刑務所に連れられて殺されました。

    さらに歌をうたった、恋人がいる、眼鏡をしている、イケメン&美女 全員殺された。

    もうめちゃくちゃすぎて、今の日本だったらみんな殺されてそうですね、、、

    ポルポト政権が言った言葉。

    我々は独自の世界を建設している。
    新しい理想郷を建設するのである。
    したがって伝統的な形をとる学校も、病院も要らない。
    貨幣も要らない。
    たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
    今住んでいるのは新しい故郷なのである。
    我々はこれより過去を切り捨てる。
    泣いてはいけない。
    泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
    笑ってはいけない。
    笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ

    ポルポトは「悪い」思想に染まっていない13歳以下の子供達を社会の重要なポジションにつけた。

    原始共産主義を理解してくれるから。

    強制収容所の看守も子供、兵士も子供。

    医師も子供だった。

    子供医師の中には、字も読めないような子供もいた。

    医療の知識もあるわけなく、消毒もせず注射をしたり、手術すら行うこともあった。

    あとはご想像にお任せです、、、(^^;

    ポルポトは密告制度を設けて、スパイも子供にやらせた。

    ポルポト政権の不平や不満を聞いた子供が、通報したら身に覚えがなくても捕まって殺される。

    捕まった人達は刑務所におくられ、自白するまで拷問される。

    罪なのかなんなのかわからない事を自白させられ、殺される。

    自白させられたら、カンボジア国内に何カ所もある『キリングフィールド』へ連行されて、子供は木に打ち付けられ、大人は銃や棒で殴り殺され、穴に捨てられた。

    ↓キリングフィールド行ったときの記事。

    カンボジアに初めて来て感じたこと

    こうして子どもが大人を常に監視する世の中、 常識、理性などなにもなく、誰も信じることが出来ず、密告に怯える。

    そんな社会になった。

    国民の生活は、農作業など、ただ黙々と働き続けることだけだった。

    そして、四年後。

    ポルポトがベトナム領内を攻めて住民を虐殺したのをきっかけに、カンジアから亡命してきた人々が カンプチア救国民族統一戦線 という軍を作り、ベトナム軍と一緒にカンボジアに攻め込んだ。

    子供兵士はあっさりやられてしまって、1979年に首都プノンペンが陥落。

    これでポルポト政権の地獄のような四年間が終わったわけです。

    その時のカンボジア国民の85%が14歳以下の子供だったそう。

    ちなみにこれが2005年ね。

    どのくらい異常なのかわかると思う。

    館内は当時の牢獄がそのまま残されてる部屋や、ここに収容されて虐殺された人達の顔写真がたくさんあった。

    中には殺された直後の写真もあったけど、とても撮る気にはなれなかった、、、

    写真ずらっと、本当たくさん並んでる。

    それだけ多くの人がここで犠牲になったってことだね。

    今現在でも、当時身内の誰かを無くしてるって人はとてもたくさんいるみたい。

    もちろんたった30数年前の話しだからね、、、。

    当時少年兵士だった人達も今は50歳くらいのはずだよね。

    少年兵の写真と証言もあった。

    生き残った人達だって、いまは笑顔で話しかけてくれるトゥクトゥクのオッサンだって

    心の奥そこには、ぜったい忘れられない当時の悲しみとかがあるんだよね、、、

    出口付近には本物の骨がキレイに並べられてた。

    何で今回ちょっと真面目に書いたかというと

    そもそも何で負の遺産と言われるものがあるのか?

    きっとこれを無くしたら、人間ってまた同じ事を繰り返すんだろうね。

    それから、どうしてここまで残酷なことが出来たんだろうね?

    答は”集団心理”というものらしい。

    人間は集団になればこんな恐ろしい事でも平気でできるようになるんだね。

    日本でさ、炎上だ!バカッターだ!

    なんてネットやTwitterでビシバシ叩く人達を見てると、なんか似てる気もしないでもないよね。

    日本でこんなこと起こるとは思わないけどね(^^;

    それと、もともと僕は歴史的なことが好きだから、このことは知っていたけど

    知らない人も、もちろんいたと思うんだよね。

    それと、ポルポトが残したものの一つに『地雷』がある。

    『完全な兵士』と称賛して、しかけまくった地雷の被害で手足がない人が多いのも事実。

    当時の事を学校で習わない子供達が今でも被害にあうのもまた事実。

    たった一人の危ない思想が渦巻くように国を飲み込み、集団心理で同士が同士を殺した。

    結果たくさんの人が死に、たくさんの障害を後世に残した。

    その上で今のカンボジアは成り立ってる。

    この歴史を知ってここに来るのと、知らずに来るのはきっとすごく大きい差があるように思う。
    今がいいとか悪いとかじゃない。

    まずは知ることが大事だよ。なんでもそう。

    知らなければ行動も出来ないからね。

    調べたらもちろんいろいろ出てくると思うけど、まずはこの記事がひとつのきっかけになってくれて、カンボジアに興味を持ってくれたら嬉しいな(^^)
    長々とありがとうございました


  3. アアアァァ( °∀°)ァァアアア : 2017/12/04(月) 22:22:16 ID:kzMDYxMjE

    今回はちょっと重~く、そして結構長~い話しになります。

    気がしずみそうな写真ものせるから、嫌な人は見ないでね、、、

    といいたいところだけど、もしこの歴史的惨劇を知らないのであれば是非見ていってほしいな。

    まずは、この人をご存知でしょうか?

    何の特徴もなさそうなこのオッサンの名前は 『ポルポト』

    今日書く話の主人公。

    今から30年ちょっと前のこと、今のカンボジアはこのポルポト率いるクメール・ルージュに支配された『民主カンプチ
    ア』という名前だった。

    このポルポト政権が始まってから、ベトナム軍とカンボジア救国統一戦線(ベトナムに亡命した反ポルポト派)に解放されるまでのたった4年間で、なんと総人口800万
    足らずのうち、200万から300万近くのカンボジア人が虐殺された、、、。

    人数は正確には今もわからないらしい。

    30数年前といえば、日本ではピンク・レディーが大旋風を起こし世界ではパソコンが一般化されはじめたような時代。

    後にも先にも、たった四年でこのような強制労働、大量虐殺、拷問、破壊、が行われた国はカンボジアを除いてどこにもない。

    僕は何年か前にこの話を知って、カンボジアにきたら必ず行こうと思っていた場所があった。

    『トゥールスレン刑務所』

    今は博物館になっていて、当時の建物のまま、写真などが展示されている。

    アウシュビッツや広島原爆ドームのような負の遺産の類だね。

    プノンペンに着いた初日に行ってきた。

    ここはポルポト政権時代に 無実の罪 で捕まった人達を収容するための刑務所だった。

    当時は『S-21』とよばれていた。

    もともとは高校だったみたい。

    中に入り、建物をまわってみることにした。

    “A”とかかれた建物にまず入ってみた。

    入口に、喋るな!と注意書きがあったけど、ここで楽しく喋れる人なんかいないと思うけど、、、

    各部屋には鎖がついたベッドがぽつんとあった。

    ここは特別な牢獄だったみたい。

    壁には発見当時だと思われる写真が一枚。

    いろいろと、しなくてもいい想像をしてしまい、いろんな思いが込み上げて来る感じだった、、、。

    何故なら、ここで実際に拷問、虐殺があったと思うとね、、、

    外にあった『victim’s graves』と題されたこの看板にはこんなことが書いてある。

    『犠牲者の墓』
    犠牲者14人の死体は、カンボジアの解放の為の救国統一戦線によって建物”A”から発見された。
    犠牲者は、ここの反対側のプロットに埋葬された。
    14人の死体の中には女性の犠牲者も一人いた。
    これらは、S-21のエージェント達が刑務所から逃げ出す前
    最後に実行されたものだった。

    この刑務所には無実の罪で20000人も収容されたけど、生きて出れたのはなんと7人だけ、、、。

    発見当時は最後に殺された14人の死体の他にも50人ほどの死体があった。

    S21が生きては出られない収容所となった理由は

    「収容された囚人は有罪と決まってる→拷問し嘘の供述をさせて処刑する→S21の拷問と虐殺が外にばれないように、何が何でも有罪にして処刑→さらに拷問が激化する」

    この超悪循環があったそう。

    理解に苦しむこのトゥールスレン刑務所とポルポト政権。

    何故自分の国の人を殺す? この人達は何故捕まった?

    と疑問が湧きまくりだと思うので、説明します。

    まずはポルポト政権になるちょっと前の話から。

    時代はベトナム戦争の頃。←これ大事

    当時、この国のトップだった シアヌーク という人がいました。

    彼はフランスに占領されてたカンボジアを独立させて国王になり、カンボジア王国をつくりました。

    このカンボジア王国は『社会主義』だったんだけど、それをアメリカはよく思ってなかったんだよね。

    カンボジア王国が出来てから、10数年後アメリカと手を組んだ当時の首相が、シアヌークがいない間にクーデターを起こして政権を奪ってしまう。
    そして国名はクメール共和国になった。

    でもさらに数年後、アメリカがベトナム戦争に負けて完全撤退することになったと同時に、バックがいなくなった新政権はたちまち崩壊してしまった。

    その頃、国民の支持を結構獲得してたのがポルポト率いる クメール・ルージュ だった。

    そして1975年4月17日、 ポルポトは新しく政権を握り、4年間恐怖と殺戮がこの国を支配することになった。

    この日、クメール・ルージュはトラックに乗って首都プノンペンに入って来た。

    ついに、内戦が終わったと信じた国民は、彼らを笑顔で迎えたらしい。

    でも、そのあと数日もしないうちに都市部の人達は、田舎へ移らされて強制労働させられることになった。

    ほかの国からの支援がないもんで、ポルポトはすぐに食料確保したかったかららしい。

    そしてプノンペンは人がいなくなり、工場、交通、店、何もかもストップし、ゴーストタウンと化した。

    その時の写真も展示してあった。

    そしてある日、その農作業をしている人達に知らせがいった。

    「医者・教師・技術者・学生だった者は、国の再興を手伝ってほしい」

    農作業から解放される!
    と、該当する人々はみんな手を挙げました。

    でも彼らを待っていたのは処刑
    二度と帰ってくる人はいなかったそうです。

    海外留学していた学生も、同じく呼び寄せられて殺された。

    何故そんなことになったかというと

    ポルポトが目指していたのは『 原始共産主義社会』
    という社会。

    超簡単に言うと、全て無くして原始時代に戻そうってもの。

    病院も、学校も、通貨も、恋愛も、家族もすべて無くす。

    めちゃくちゃ過ぎてもはや意味わかんないよね(^^;

    反対するものはもちろん殺されたけど、真っ先に殺されたのが先生や医師などの『反対勢力になりそうな知識人』

    次第にエスカレートしていって本を読んでた、旧貨幣を持ってた、子どもに教育した、腕時計をしてた、英語を話した、政府の悪口を言った
    このような人もすべて刑務所に連れられて殺されました。

    さらに歌をうたった、恋人がいる、眼鏡をしている、イケメン&美女 全員殺された。

    もうめちゃくちゃすぎて、今の日本だったらみんな殺されてそうですね、、、

    ポルポト政権が言った言葉。

    我々は独自の世界を建設している。
    新しい理想郷を建設するのである。
    したがって伝統的な形をとる学校も、病院も要らない。
    貨幣も要らない。
    たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
    今住んでいるのは新しい故郷なのである。
    我々はこれより過去を切り捨てる。
    泣いてはいけない。
    泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
    笑ってはいけない。
    笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ

    ポルポトは「悪い」思想に染まっていない13歳以下の子供達を社会の重要なポジションにつけた。

    原始共産主義を理解してくれるから。

    強制収容所の看守も子供、兵士も子供。

    医師も子供だった。

    子供医師の中には、字も読めないような子供もいた。

    医療の知識もあるわけなく、消毒もせず注射をしたり、手術すら行うこともあった。

    あとはご想像にお任せです、、、(^^;

    ポルポトは密告制度を設けて、スパイも子供にやらせた。

    ポルポト政権の不平や不満を聞いた子供が、通報したら身に覚えがなくても捕まって殺される。

    捕まった人達は刑務所におくられ、自白するまで拷問される。

    罪なのかなんなのかわからない事を自白させられ、殺される。

    自白させられたら、カンボジア国内に何カ所もある『キリングフィールド』へ連行されて、子供は木に打ち付けられ、大人は銃や棒で殴り殺され、穴に捨てられた。

    ↓キリングフィールド行ったときの記事。

    カンボジアに初めて来て感じたこと

    こうして子どもが大人を常に監視する世の中、 常識、理性などなにもなく、誰も信じることが出来ず、密告に怯える。

    そんな社会になった。

    国民の生活は、農作業など、ただ黙々と働き続けることだけだった。

    そして、四年後。

    ポルポトがベトナム領内を攻めて住民を虐殺したのをきっかけに、カンジアから亡命してきた人々が カンプチア救国民族統一戦線 という軍を作り、ベトナム軍と一緒にカンボジアに攻め込んだ。

    子供兵士はあっさりやられてしまって、1979年に首都プノンペンが陥落。

    これでポルポト政権の地獄のような四年間が終わったわけです。

    その時のカンボジア国民の85%が14歳以下の子供だったそう。

    ちなみにこれが2005年ね。

    どのくらい異常なのかわかると思う。

    館内は当時の牢獄がそのまま残されてる部屋や、ここに収容されて虐殺された人達の顔写真がたくさんあった。

    中には殺された直後の写真もあったけど、とても撮る気にはなれなかった、、、

    写真ずらっと、本当たくさん並んでる。

    それだけ多くの人がここで犠牲になったってことだね。

    今現在でも、当時身内の誰かを無くしてるって人はとてもたくさんいるみたい。

    もちろんたった30数年前の話しだからね、、、。

    当時少年兵士だった人達も今は50歳くらいのはずだよね。

    少年兵の写真と証言もあった。

    生き残った人達だって、いまは笑顔で話しかけてくれるトゥクトゥクのオッサンだって

    心の奥そこには、ぜったい忘れられない当時の悲しみとかがあるんだよね、、、

    出口付近には本物の骨がキレイに並べられてた。

    何で今回ちょっと真面目に書いたかというと

    そもそも何で負の遺産と言われるものがあるのか?

    きっとこれを無くしたら、人間ってまた同じ事を繰り返すんだろうね。

    それから、どうしてここまで残酷なことが出来たんだろうね?

    答は”集団心理”というものらしい。

    人間は集団になればこんな恐ろしい事でも平気でできるようになるんだね。

    日本でさ、炎上だ!バカッターだ!

    なんてネットやTwitterでビシバシ叩く人達を見てると、なんか似てる気もしないでもないよね。

    日本でこんなこと起こるとは思わないけどね(^^;

    それと、もともと僕は歴史的なことが好きだから、このことは知っていたけど

    知らない人も、もちろんいたと思うんだよね。

    それと、ポルポトが残したものの一つに『地雷』がある。

    『完全な兵士』と称賛して、しかけまくった地雷の被害で手足がない人が多いのも事実。

    当時の事を学校で習わない子供達が今でも被害にあうのもまた事実。

    たった一人の危ない思想が渦巻くように国を飲み込み、集団心理で同士が同士を殺した。

    結果たくさんの人が死に、たくさんの障害を後世に残した。

    その上で今のカンボジアは成り立ってる。

    この歴史を知ってここに来るのと、知らずに来るのはきっとすごく大きい差があるように思う。
    今がいいとか悪いとかじゃない。

    まずは知ることが大事だよ。なんでもそう。

    知らなければ行動も出来ないからね。

    調べたらもちろんいろいろ出てくると思うけど、まずはこの記事がひとつのきっかけになってくれて、カンボジアに興味を持ってくれたら嬉しいな(^^)
    長々とありがとうございました。


  4. アアアァァ( °∀°)ァァアアア : 2017/12/04(月) 22:22:40 ID:kzMDYxMjE

    今回はちょっと重~く、そして結構長~い話しになります。

    気がしずみそうな写真ものせるから、嫌な人は見ないでね、、、

    といいたいところだけど、もしこの歴史的惨劇を知らないのであれば是非見ていってほしいな。

    まずは、この人をご存知でしょうか?

    何の特徴もなさそうなこのオッサンの名前は 『ポルポト』

    今日書く話の主人公。

    今から30年ちょっと前のこと、今のカンボジアはこのポルポト率いるクメール・ルージュに支配された『民主カンプチ
    ア』という名前だった。

    このポルポト政権が始まってから、ベトナム軍とカンボジア救国統一戦線(ベトナムに亡命した反ポルポト派)に解放されるまでのたった4年間で、なんと総人口800万
    足らずのうち、200万から300万近くのカンボジア人が虐殺された、、、。

    人数は正確には今もわからないらしい。

    30数年前といえば、日本ではピンク・レディーが大旋風を起こし世界ではパソコンが一般化されはじめたような時代。

    後にも先にも、たった四年でこのような強制労働、大量虐殺、拷問、破壊、が行われた国はカンボジアを除いてどこにもない。

    僕は何年か前にこの話を知って、カンボジアにきたら必ず行こうと思っていた場所があった。

    『トゥールスレン刑務所』

    今は博物館になっていて、当時の建物のまま、写真などが展示されている。

    アウシュビッツや広島原爆ドームのような負の遺産の類だね。

    プノンペンに着いた初日に行ってきた。

    ここはポルポト政権時代に 無実の罪 で捕まった人達を収容するための刑務所だった。

    当時は『S-21』とよばれていた。

    もともとは高校だったみたい。

    中に入り、建物をまわってみることにした。

    “A”とかかれた建物にまず入ってみた。

    入口に、喋るな!と注意書きがあったけど、ここで楽しく喋れる人なんかいないと思うけど、、、

    各部屋には鎖がついたベッドがぽつんとあった。

    ここは特別な牢獄だったみたい。

    壁には発見当時だと思われる写真が一枚。

    いろいろと、しなくてもいい想像をしてしまい、いろんな思いが込み上げて来る感じだった、、、。

    何故なら、ここで実際に拷問、虐殺があったと思うとね、、、

    外にあった『victim’s graves』と題されたこの看板にはこんなことが書いてある。

    『犠牲者の墓』
    犠牲者14人の死体は、カンボジアの解放の為の救国統一戦線によって建物”A”から発見された。
    犠牲者は、ここの反対側のプロットに埋葬された。
    14人の死体の中には女性の犠牲者も一人いた。
    これらは、S-21のエージェント達が刑務所から逃げ出す前
    最後に実行されたものだった。

    この刑務所には無実の罪で20000人も収容されたけど、生きて出れたのはなんと7人だけ、、、。

    発見当時は最後に殺された14人の死体の他にも50人ほどの死体があった。

    S21が生きては出られない収容所となった理由は

    「収容された囚人は有罪と決まってる→拷問し嘘の供述をさせて処刑する→S21の拷問と虐殺が外にばれないように、何が何でも有罪にして処刑→さらに拷問が激化する」

    この超悪循環があったそう。

    理解に苦しむこのトゥールスレン刑務所とポルポト政権。

    何故自分の国の人を殺す? この人達は何故捕まった?

    と疑問が湧きまくりだと思うので、説明します。

    まずはポルポト政権になるちょっと前の話から。

    時代はベトナム戦争の頃。←これ大事

    当時、この国のトップだった シアヌーク という人がいました。

    彼はフランスに占領されてたカンボジアを独立させて国王になり、カンボジア王国をつくりました。

    このカンボジア王国は『社会主義』だったんだけど、それをアメリカはよく思ってなかったんだよね。

    カンボジア王国が出来てから、10数年後アメリカと手を組んだ当時の首相が、シアヌークがいない間にクーデターを起こして政権を奪ってしまう。
    そして国名はクメール共和国になった。

    でもさらに数年後、アメリカがベトナム戦争に負けて完全撤退することになったと同時に、バックがいなくなった新政権はたちまち崩壊してしまった。

    その頃、国民の支持を結構獲得してたのがポルポト率いる クメール・ルージュ だった。

    そして1975年4月17日、 ポルポトは新しく政権を握り、4年間恐怖と殺戮がこの国を支配することになった。

    この日、クメール・ルージュはトラックに乗って首都プノンペンに入って来た。

    ついに、内戦が終わったと信じた国民は、彼らを笑顔で迎えたらしい。

    でも、そのあと数日もしないうちに都市部の人達は、田舎へ移らされて強制労働させられることになった。

    ほかの国からの支援がないもんで、ポルポトはすぐに食料確保したかったかららしい。

    そしてプノンペンは人がいなくなり、工場、交通、店、何もかもストップし、ゴーストタウンと化した。

    その時の写真も展示してあった。

    そしてある日、その農作業をしている人達に知らせがいった。

    「医者・教師・技術者・学生だった者は、国の再興を手伝ってほしい」

    農作業から解放される!
    と、該当する人々はみんな手を挙げました。

    でも彼らを待っていたのは処刑
    二度と帰ってくる人はいなかったそうです。

    海外留学していた学生も、同じく呼び寄せられて殺された。

    何故そんなことになったかというと

    ポルポトが目指していたのは『 原始共産主義社会』
    という社会。

    超簡単に言うと、全て無くして原始時代に戻そうってもの。

    病院も、学校も、通貨も、恋愛も、家族もすべて無くす。

    めちゃくちゃ過ぎてもはや意味わかんないよね(^^;

    反対するものはもちろん殺されたけど、真っ先に殺されたのが先生や医師などの『反対勢力になりそうな知識人』

    次第にエスカレートしていって本を読んでた、旧貨幣を持ってた、子どもに教育した、腕時計をしてた、英語を話した、政府の悪口を言った
    このような人もすべて刑務所に連れられて殺されました。

    さらに歌をうたった、恋人がいる、眼鏡をしている、イケメン&美女 全員殺された。

    もうめちゃくちゃすぎて、今の日本だったらみんな殺されてそうですね、、、

    ポルポト政権が言った言葉。

    我々は独自の世界を建設している。
    新しい理想郷を建設するのである。
    したがって伝統的な形をとる学校も、病院も要らない。
    貨幣も要らない。
    たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
    今住んでいるのは新しい故郷なのである。
    我々はこれより過去を切り捨てる。
    泣いてはいけない。
    泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
    笑ってはいけない。
    笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ

    ポルポトは「悪い」思想に染まっていない13歳以下の子供達を社会の重要なポジションにつけた。

    原始共産主義を理解してくれるから。

    強制収容所の看守も子供、兵士も子供。

    医師も子供だった。

    子供医師の中には、字も読めないような子供もいた。

    医療の知識もあるわけなく、消毒もせず注射をしたり、手術すら行うこともあった。

    あとはご想像にお任せです、、、(^^;

    ポルポトは密告制度を設けて、スパイも子供にやらせた。

    ポルポト政権の不平や不満を聞いた子供が、通報したら身に覚えがなくても捕まって殺される。

    捕まった人達は刑務所におくられ、自白するまで拷問される。

    罪なのかなんなのかわからない事を自白させられ、殺される。

    自白させられたら、カンボジア国内に何カ所もある『キリングフィールド』へ連行されて、子供は木に打ち付けられ、大人は銃や棒で殴り殺され、穴に捨てられた。

    ↓キリングフィールド行ったときの記事。

    カンボジアに初めて来て感じたこと

    こうして子どもが大人を常に監視する世の中、 常識、理性などなにもなく、誰も信じることが出来ず、密告に怯える。

    そんな社会になった。

    国民の生活は、農作業など、ただ黙々と働き続けることだけだった。

    そして、四年後。

    ポルポトがベトナム領内を攻めて住民を虐殺したのをきっかけに、カンジアから亡命してきた人々が カンプチア救国民族統一戦線 という軍を作り、ベトナム軍と一緒にカンボジアに攻め込んだ。

    子供兵士はあっさりやられてしまって、1979年に首都プノンペンが陥落。

    これでポルポト政権の地獄のような四年間が終わったわけです。

    その時のカンボジア国民の85%が14歳以下の子供だったそう。

    ちなみにこれが2005年ね。

    どのくらい異常なのかわかると思う。

    館内は当時の牢獄がそのまま残されてる部屋や、ここに収容されて虐殺された人達の顔写真がたくさんあった。

    中には殺された直後の写真もあったけど、とても撮る気にはなれなかった、、、

    写真ずらっと、本当たくさん並んでる。

    それだけ多くの人がここで犠牲になったってことだね。

    今現在でも、当時身内の誰かを無くしてるって人はとてもたくさんいるみたい。

    もちろんたった30数年前の話しだからね、、、。

    当時少年兵士だった人達も今は50歳くらいのはずだよね。

    少年兵の写真と証言もあった。

    生き残った人達だって、いまは笑顔で話しかけてくれるトゥクトゥクのオッサンだって

    心の奥そこには、ぜったい忘れられない当時の悲しみとかがあるんだよね、、、

    出口付近には本物の骨がキレイに並べられてた。

    何で今回ちょっと真面目に書いたかというと

    そもそも何で負の遺産と言われるものがあるのか?

    きっとこれを無くしたら、人間ってまた同じ事を繰り返すんだろうね。

    それから、どうしてここまで残酷なことが出来たんだろうね?

    答は”集団心理”というものらしい。

    人間は集団になればこんな恐ろしい事でも平気でできるようになるんだね。

    日本でさ、炎上だ!バカッターだ!

    なんてネットやTwitterでビシバシ叩く人達を見てると、なんか似てる気もしないでもないよね。

    日本でこんなこと起こるとは思わないけどね(^^;

    それと、もともと僕は歴史的なことが好きだから、このことは知っていたけど

    知らない人も、もちろんいたと思うんだよね。

    それと、ポルポトが残したものの一つに『地雷』がある。

    『完全な兵士』と称賛して、しかけまくった地雷の被害で手足がない人が多いのも事実。

    当時の事を学校で習わない子供達が今でも被害にあうのもまた事実。

    たった一人の危ない思想が渦巻くように国を飲み込み、集団心理で同士が同士を殺した。

    結果たくさんの人が死に、たくさんの障害を後世に残した。

    その上で今のカンボジアは成り立ってる。

    この歴史を知ってここに来るのと、知らずに来るのはきっとすごく大きい差があるように思う。
    今がいいとか悪いとかじゃない。

    まずは知ることが大事だよ。なんでもそう。

    知らなければ行動も出来ないからね。


  5. アアアァァ( °∀°)ァァアアア : 2017/12/04(月) 22:23:06 ID:kzMDYxMjE

    今回はちょっと重~く、そして結構長~い話しになります。

    気がしずみそうな写真ものせるから、嫌な人は見ないでね、、、

    といいたいところだけど、もしこの歴史的惨劇を知らないのであれば是非見ていってほしいな。

    まずは、この人をご存知でしょうか?

    何の特徴もなさそうなこのオッサンの名前は 『ポルポト』

    今日書く話の主人公。

    今から30年ちょっと前のこと、今のカンボジアはこのポルポト率いるクメール・ルージュに支配された『民主カンプチ
    ア』という名前だった。

    このポルポト政権が始まってから、ベトナム軍とカンボジア救国統一戦線(ベトナムに亡命した反ポルポト派)に解放されるまでのたった4年間で、なんと総人口800万
    足らずのうち、200万から300万近くのカンボジア人が虐殺された、、、。

    人数は正確には今もわからないらしい。

    30数年前といえば、日本ではピンク・レディーが大旋風を起こし世界ではパソコンが一般化されはじめたような時代。

    後にも先にも、たった四年でこのような強制労働、大量虐殺、拷問、破壊、が行われた国はカンボジアを除いてどこにもない。

    僕は何年か前にこの話を知って、カンボジアにきたら必ず行こうと思っていた場所があった。

    『トゥールスレン刑務所』

    今は博物館になっていて、当時の建物のまま、写真などが展示されている。

    アウシュビッツや広島原爆ドームのような負の遺産の類だね。

    プノンペンに着いた初日に行ってきた。

    ここはポルポト政権時代に 無実の罪 で捕まった人達を収容するための刑務所だった。

    当時は『S-21』とよばれていた。

    もともとは高校だったみたい。

    中に入り、建物をまわってみることにした。

    “A”とかかれた建物にまず入ってみた。

    入口に、喋るな!と注意書きがあったけど、ここで楽しく喋れる人なんかいないと思うけど、、、

    各部屋には鎖がついたベッドがぽつんとあった。

    ここは特別な牢獄だったみたい。

    壁には発見当時だと思われる写真が一枚。

    いろいろと、しなくてもいい想像をしてしまい、いろんな思いが込み上げて来る感じだった、、、。

    何故なら、ここで実際に拷問、虐殺があったと思うとね、、、

    外にあった『victim’s graves』と題されたこの看板にはこんなことが書いてある。

    『犠牲者の墓』
    犠牲者14人の死体は、カンボジアの解放の為の救国統一戦線によって建物”A”から発見された。
    犠牲者は、ここの反対側のプロットに埋葬された。
    14人の死体の中には女性の犠牲者も一人いた。
    これらは、S-21のエージェント達が刑務所から逃げ出す前
    最後に実行されたものだった。

    この刑務所には無実の罪で20000人も収容されたけど、生きて出れたのはなんと7人だけ、、、。

    発見当時は最後に殺された14人の死体の他にも50人ほどの死体があった。

    S21が生きては出られない収容所となった理由は

    「収容された囚人は有罪と決まってる→拷問し嘘の供述をさせて処刑する→S21の拷問と虐殺が外にばれないように、何が何でも有罪にして処刑→さらに拷問が激化する」

    この超悪循環があったそう。

    理解に苦しむこのトゥールスレン刑務所とポルポト政権。

    何故自分の国の人を殺す? この人達は何故捕まった?

    と疑問が湧きまくりだと思うので、説明します。

    まずはポルポト政権になるちょっと前の話から。

    時代はベトナム戦争の頃。←これ大事

    当時、この国のトップだった シアヌーク という人がいました。

    彼はフランスに占領されてたカンボジアを独立させて国王になり、カンボジア王国をつくりました。

    このカンボジア王国は『社会主義』だったんだけど、それをアメリカはよく思ってなかったんだよね。

    カンボジア王国が出来てから、10数年後アメリカと手を組んだ当時の首相が、シアヌークがいない間にクーデターを起こして政権を奪ってしまう。
    そして国名はクメール共和国になった。

    でもさらに数年後、アメリカがベトナム戦争に負けて完全撤退することになったと同時に、バックがいなくなった新政権はたちまち崩壊してしまった。

    その頃、国民の支持を結構獲得してたのがポルポト率いる クメール・ルージュ だった。

    そして1975年4月17日、 ポルポトは新しく政権を握り、4年間恐怖と殺戮がこの国を支配することになった。

    この日、クメール・ルージュはトラックに乗って首都プノンペンに入って来た。

    ついに、内戦が終わったと信じた国民は、彼らを笑顔で迎えたらしい。

    でも、そのあと数日もしないうちに都市部の人達は、田舎へ移らされて強制労働させられることになった。

    ほかの国からの支援がないもんで、ポルポトはすぐに食料確保したかったかららしい。

    そしてプノンペンは人がいなくなり、工場、交通、店、何もかもストップし、ゴーストタウンと化した。

    その時の写真も展示してあった。

    そしてある日、その農作業をしている人達に知らせがいった。

    「医者・教師・技術者・学生だった者は、国の再興を手伝ってほしい」

    農作業から解放される!
    と、該当する人々はみんな手を挙げました。

    でも彼らを待っていたのは処刑
    二度と帰ってくる人はいなかったそうです。

    海外留学していた学生も、同じく呼び寄せられて殺された。

    何故そんなことになったかというと

    ポルポトが目指していたのは『 原始共産主義社会』
    という社会。

    超簡単に言うと、全て無くして原始時代に戻そうってもの。

    病院も、学校も、通貨も、恋愛も、家族もすべて無くす。

    めちゃくちゃ過ぎてもはや意味わかんないよね(^^;

    反対するものはもちろん殺されたけど、真っ先に殺されたのが先生や医師などの『反対勢力になりそうな知識人』

    次第にエスカレートしていって本を読んでた、旧貨幣を持ってた、子どもに教育した、腕時計をしてた、英語を話した、政府の悪口を言った
    このような人もすべて刑務所に連れられて殺されました。

    さらに歌をうたった、恋人がいる、眼鏡をしている、イケメン&美女 全員殺された。

    もうめちゃくちゃすぎて、今の日本だったらみんな殺されてそうですね、、、

    ポルポト政権が言った言葉。

    我々は独自の世界を建設している。
    新しい理想郷を建設するのである。
    したがって伝統的な形をとる学校も、病院も要らない。
    貨幣も要らない。
    たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
    今住んでいるのは新しい故郷なのである。
    我々はこれより過去を切り捨てる。
    泣いてはいけない。
    泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
    笑ってはいけない。
    笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ

    ポルポトは「悪い」思想に染まっていない13歳以下の子供達を社会の重要なポジションにつけた。

    原始共産主義を理解してくれるから。

    強制収容所の看守も子供、兵士も子供。

    医師も子供だった。

    子供医師の中には、字も読めないような子供もいた。

    医療の知識もあるわけなく、消毒もせず注射をしたり、手術すら行うこともあった。

    あとはご想像にお任せです、、、(^^;

    ポルポトは密告制度を設けて、スパイも子供にやらせた。

    ポルポト政権の不平や不満を聞いた子供が、通報したら身に覚えがなくても捕まって殺される。

    捕まった人達は刑務所におくられ、自白するまで拷問される。

    罪なのかなんなのかわからない事を自白させられ、殺される。

    自白させられたら、カンボジア国内に何カ所もある『キリングフィールド』へ連行されて、子供は木に打ち付けられ、大人は銃や棒で殴り殺され、穴に捨てられた。

    ↓キリングフィールド行ったときの記事。

    カンボジアに初めて来て感じたこと

    こうして子どもが大人を常に監視する世の中、 常識、理性などなにもなく、誰も信じることが出来ず、密告に怯える。

    そんな社会になった。

    国民の生活は、農作業など、ただ黙々と働き続けることだけだった。

    そして、四年後。

    ポルポトがベトナム領内を攻めて住民を虐殺したのをきっかけに、カンジアから亡命してきた人々が カンプチア救国民族統一戦線 という軍を作り、ベトナム軍と一緒にカンボジアに攻め込んだ。

    子供兵士はあっさりやられてしまって、1979年に首都プノンペンが陥落。

    これでポルポト政権の地獄のような四年間が終わったわけです。

    その時のカンボジア国民の85%が14歳以下の子供だったそう。

    ちなみにこれが2005年ね。

    どのくらい異常なのかわかると思う。

    館内は当時の牢獄がそのまま残されてる部屋や、ここに収容されて虐殺された人達の顔写真がたくさんあった。

    中には殺された直後の写真もあったけど、とても撮る気にはなれなかった、、、

    写真ずらっと、本当たくさん並んでる。

    それだけ多くの人がここで犠牲になったってことだね。

    今現在でも、当時身内の誰かを無くしてるって人はとてもたくさんいるみたい。

    もちろんたった30数年前の話しだからね、、、。

    当時少年兵士だった人達も今は50歳くらいのはずだよね。

    少年兵の写真と証言もあった。

    生き残った人達だって、いまは笑顔で話しかけてくれるトゥクトゥクのオッサンだって

    心の奥そこには、ぜったい忘れられない当時の悲しみとかがあるんだよね、、、

    出口付近には本物の骨がキレイに並べられてた。

    何で今回ちょっと真面目に書いたかというと

    そもそも何で負の遺産と言われるものがあるのか?

    きっとこれを無くしたら、人間ってまた同じ事を繰り返すんだろうね。

    それから、どうしてここまで残酷なことが出来たんだろうね?

    答は”集団心理”というものらしい。

    人間は集団になればこんな恐ろしい事でも平気でできるようになるんだね。

    日本でさ、炎上だ!バカッターだ!

    なんてネットやTwitterでビシバシ叩く人達を見てると、なんか似てる気もしないでもないよね。

    日本でこんなこと起こるとは思わないけどね(^^;

    それと、もともと僕は歴史的なことが好きだから、このことは知っていたけど

    知らない人も、もちろんいたと思うんだよね。

    それと、ポルポトが残したものの一つに『地雷』がある。

    『完全な兵士』と称賛して、しかけまくった地雷の被害で手足がない人が多いのも事実。

    当時の事を学校で習わない子供達が今でも被害にあうのもまた事実。

    たった一人の危ない思想が渦巻くように国を飲み込み、集団心理で同士が同士を殺した。

    結果たくさんの人が死に、たくさんの障害を後世に残した。

    その上で今のカンボジアは成り立ってる。

    この歴史を知ってここに来るのと、知らずに来るのはきっとすごく大きい差があるように思う。
    今がいいとか悪いとかじゃない。

    まずは知ることが大事だよ。なんでもそう。

    知らなければ行動も出来ないからね。

    調べたらもちろんいろいろ出てくると思うけど、まずはこの記事がひとつのきっかけになってくれて、カンボジアに興味を持ってくれたら嬉しいな


  6. アアアァァ( °∀°)ァァアアア : 2017/12/04(月) 22:24:42 ID:kzMDYxMjE

    グルジア語名იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი(イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ)としてロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市で生まれる。正教の神学校で教育を受ける[2]が、のちに棄教、無神論に転向[3]、15歳にしてマルクス主義に基づいた革命運動に参加する。

    ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与。1924年、レーニン死後に起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることで後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。

    以降、人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議(ロシア語版)議長 を1941年から1953年に死没するまで務めたほか、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した[1][4]。

    1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した[5]。

    一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いることになり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上[6]、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた[6]。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑あるいは追放された[7]。

    1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり[8]、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻は第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国の日本とも日ソ中立条約を結んだ。

    1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦でモンゴルの独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州と内蒙古、日本の北方領土や朝鮮半島北部まで攻め落とした。

    連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[9][10]、国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[11]。ヤルタ会談とポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦で中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。

    1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、核武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。

    死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。

    その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[12]と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある[13]。特にスターリン崇拝が強いのは隣国のベラルーシである。

    生涯 編集

    生い立ち 編集
    父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ 父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ
    父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ
    1878年12月18日、ヨシフ・スターリンはヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ(グルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)として[1]、ロシア帝国支配下のグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市に生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ[14]は靴職人、母ケテワン・ゲラーゼは農奴出身のカルトヴェリ人という貧しい家系であった[15]。両親の第3子であったが2人の兄は幼児で死没しているため、実質的には長男として育てられた[15]。

    彼の生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった[15]。父ヴィサリオンは地元でも評判の職人だったがアルコール依存症を患い、しばしば妻や子供に暴力を振るった[16]。家計は次第に傾いていき、幼少期だけで9回も転居を繰り返した[15]。7歳の時には天然痘に罹患する不幸にも遭い、助かったものの皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度に亘って馬車に撥ねられて大怪我を負い[17]、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。

    ヨシフは10歳の時、グルジア正教会からの推薦を受け、教会が運営する聖職者養成の初等神学校に進む。信心深かった母は大いに喜んだが、父は息子に靴職人を継がせる望みが絶たれるのを恐れて学業に反対した。父ヴィッサリオンは母に「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と言っていたという[18]。結局、父は別居という形で一家から離れていったが[15]、後に息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなど抵抗を続けていたという[15]。

    神学校でもグルジア系ロシア人は差別を受け、公用語であるロシア語の使用が強制されていた。ヨシフは度重なる父の反対や怪我を乗り越えつつ勉学に励み、この経歴から聖書を隅から隅まで読んだといえる唯一の独裁者である[19]。やがて優等生として認められるようになったが、マルクス主義に傾倒したことで神学に対する疑問を抱き始めていったとされている[20]。神学校の記録では、1896年、禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持、1898年には、朝の祈祷の欠席や規律違反、反抗的態度などで、度々注意や処罰を受けており問題行動が目立っていた[21]。1899年、司祭叙任を目前にしながら授業料不足を理由に神学校を退校している[22]。


  7. アアアァァ( °∀°)ァァアアア : 2017/12/04(月) 22:26:00 ID:kzMDYxMjE

    物概要 編集

    グルジア語名იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი(イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ)としてロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市で生まれる。正教の神学校で教育を受ける[2]が、のちに棄教、無神論に転向[3]、15歳にしてマルクス主義に基づいた革命運動に参加する。

    ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与。1924年、レーニン死後に起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることで後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。

    以降、人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議(ロシア語版)議長 を1941年から1953年に死没するまで務めたほか、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した[1][4]。

    1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した[5]。

    一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いることになり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上[6]、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた[6]。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑あるいは追放された[7]。

    1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり[8]、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻は第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国の日本とも日ソ中立条約を結んだ。

    1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦でモンゴルの独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州と内蒙古、日本の北方領土や朝鮮半島北部まで攻め落とした。

    連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[9][10]、国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[11]。ヤルタ会談とポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦で中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。

    1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、核武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。

    死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。

    その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[12]と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある[13]。特にスターリン崇拝が強いのは隣国のベラルーシである。

    生涯 編集

    生い立ち 編集
    父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ 父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ
    父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ
    1878年12月18日、ヨシフ・スターリンはヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ(グルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)として[1]、ロシア帝国支配下のグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市に生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ[14]は靴職人、母ケテワン・ゲラーゼは農奴出身のカルトヴェリ人という貧しい家系であった[15]。両親の第3子であったが2人の兄は幼児で死没しているため、実質的には長男として育てられた[15]。

    彼の生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった[15]。父ヴィサリオンは地元でも評判の職人だったがアルコール依存症を患い、しばしば妻や子供に暴力を振るった[16]。家計は次第に傾いていき、幼少期だけで9回も転居を繰り返した[15]。7歳の時には天然痘に罹患する不幸にも遭い、助かったものの皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度に亘って馬車に撥ねられて大怪我を負い[17]、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。

    ヨシフは10歳の時、グルジア正教会からの推薦を受け、教会が運営する聖職者養成の初等神学校に進む。信心深かった母は大いに喜んだが、父は息子に靴職人を継がせる望みが絶たれるのを恐れて学業に反対した。父ヴィッサリオンは母に「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と言っていたという[18]。結局、父は別居という形で一家から離れていったが[15]、後に息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなど抵抗を続けていたという[15]。

    神学校でもグルジア系ロシア人は差別を受け、公用語であるロシア語の使用が強制されていた。ヨシフは度重なる父の反対や怪我を乗り越えつつ勉学に励み、この経歴から聖書を隅から隅まで読んだといえる唯一の独裁者である[19]。やがて優等生として認められるようになったが、マルクス主義に傾倒したことで神学に対する疑問を抱き始めていったとされている[20]。神学校の記録では、1896年、禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持、1898年には、朝の祈祷の欠席や規律違反、反抗的態度などで、度々注意や処罰を受けており問題行動が目立っていた[21]。1899年、司祭叙任を目前にしながら授業料不足を理由に神学校を退校している[22]。

    少年期の肖像画

    1902年に撮影された写真

    政治活動 編集
    革命家への転身 編集
    司祭教育を放擲したヨシフは、トビリシの中央気象台にて気象局員の仕事に就く。給料は月に20ルーブルという比較的安月給であったが、仕事の負荷は軽かった。勤務の傍ら、ロシア社会民主労働党の地方組織に参加する。ヨシフはストライキを組織し、示威運動を指導してスピーチを行った。ほどなくしてヨシフは、ツァーリ秘密警察のオフラーナの注意を受けた[15]。この頃、オフラーナのファイル内の神学校時代の履歴を基に「ロシア側のスパイ活動を継続し随時報告」するようにとの指令の確認が行われた。このことを以ってスターリンの行動に当時の主流派と違ったスタンスのいわば反党的なバイアスを感じる同僚から二重スパイの感触が拭い去られ難く常にマークされていた。後年それを暴露され、公になることを怖れ、混乱下にある共産党内の粛清に至る、云々という心理的な背景を語る1970年代のスターリン研究書には書かれていた。

    1901年4月3日の夜、オフラーナはトビリシにて、ロシア社会民主労働党の多くの指導者を逮捕したが、ヨシフは気象台でオフラーナの諜報員が待ち伏せしているのを見つけたことで捕獲を免れた。1901年に中央気象台を辞めたあとは、地下組織に潜って政治活動を行い、友人、支持者、そして党からの寄付金で生活した。ヨシフはバクーに本拠を置く過激な新聞社「Brdzola」で革命の記事を書き始めた[15]。

    同年10月、ヨシフはバトゥミに逃れ、精油所を所有しているロスチャイルド家で働く。その地で労働者を組織したヨシフは、1902年に精油所で起こった火事に巻き込まれた際に、経営者を騙して労働者に賞与を渡させることを目論んだ。しかしながら、経営者は放火を疑ったため、支払いを拒否した。これは、労働者を組織したヨシフの逮捕、そして街のコサックとの衝突という一連のストライキに至るのであった。刑務所内の仲間を脱獄させる試みの一つとしてコサックが介入したとき、スト参加者13人が殺された。ヨシフは、死者を殉教者のように描写した小冊子を配布した。1902年4月18日、当局はついに、密会の場でヨシフを逮捕した。裁判では、暴動を指揮したことについては証拠不十分として無罪となったが、トビリシでのヨシフの活動を当局が調査している間は拘留された。1903年、当局はヨシフをシベリアへ3年間追放することに決めた[15]。

    非合法活動 編集
    1903年12月9日、ヨシフはシベリアのイルクーツク州にあるノヴァヤ・ウダ (Novaya Uda) という街にいた。この間に、ロシア社会民主労働党内で、レーニン派のボリシェヴィキとユーリー・マルトフ派のメンシェヴィキという、対立する2つの派閥ができたことを聞いた。すでにレーニンの賞賛者であったヨシフは、レーニンの党派に加わることを決めたが、虚偽の書類をどうにか手に入れた直後、1904年1月17日に列車に乗ってシベリアから逃亡し、その10日後にトビリシに到着した[15]。なお、獄中にいる中、ヨシフは社会民主労働党の委員に選ばれている。

    収入が無く、仲間との付き合いで生活していたヨシフは、仲間の1人から、のちにレーニンの死後にソ連の共同統治者となるレフ・カーメネフを紹介された。この頃のヨシフは、国際的に大多数のマルクス主義者同士での亀裂を引き起こしたグルジア社会民主党 (en:Georgian Social Democratic (Menshevik) Party) を支持していた。追放の危機に瀕していたヨシフは、「信条」を書くことを強制され、彼の書いた論文は破棄された(レーニンはこの論文を手元から遠く離し、ヨシフがソ連の統治者となった時、この「信条」の原稿を全部破り捨てようとした。これを読んだ人の多くは銃殺された)[15]。翌月、日本とロシアとの間で日露戦争が勃発した。結局ロシアの敗北に終わったこの戦争は、ロシア経済に厳しい重圧を、グルジア国内に多大な不安をもたらした。ヨシフは党のために、政治活動を行っているグルジアの向こう側に旅に出かけ、誹謗活動と陰謀を通して、メンシェヴィキ党員を弱体化させるために働いた。ヨシフの努力は、レーニンを初めて注目させた。

    1905年1月22日、首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件が発生したとき、ヨシフはバクーにいた。この一連の出来事の一部は、ロシア革命勃発の引き金を引いた。暴動、小作農の反乱、民族虐殺はロシア国内に広まった。同年2月、少数民族のアゼルバイジャン人とアルメニア人が、バクーの街でお互いを虐殺していた。武装したボリシェヴィキの隊を指揮したヨシフは、党の資金調達のために保証金をゆすり取り、印刷機材を盗んだ。その後、ヨシフは西の方へ向かい、グルジアで圧倒的支持を受けていたメンシェヴィキ党員に対する活動を続けた。鉱山の街チアトゥラにて、ヨシフとメンシェヴィキ党員の両者は炭鉱労働者からの支持を争った。メンシェヴィキ党員たちの大胆な雄弁よりも、明白で簡潔な話し方をするヨシフを好んだ鉱夫たちは、後者を選んだ[15]。チアトゥラの街から、ヨシフはグルジア全域でボリシェヴィキの民兵を組織し、武装させたが、彼らと共に富裕層の間で保証金をゆすり取り、コサック、警官、そしてオフラーナに対してゲリラ戦を仕掛けた。

    妻エカテリーナの遺体を見つめるスターリン(一番右)(1907年12月8日)
    同年、ヨシフはトビリシにて、自身と同じグルジア系で、仕立て屋の娘だったエカテリーナ・スワニーゼ (en:Ekaterina Svanidze) と出会う。

    1905年12月、ヨシフとほかの活動家2人は、フィンランドのタンペレにて開催されたボリシェヴィキ協議会で、カフカース代表に選出された。1906年1月7日、ヨシフはこの地で初めてレーニンと直接出会った。ヨシフはレーニンの人格と知性に感動したが、レーニンの言説に反駁することを恐れなかった[15]。ヨシフは、ドゥーマが最近作った選挙に参加するというレーニンの提案に反対した。ヨシフはレーニンに認められた。ヨシフはこの協議で、将来の指揮官エメリアン・ヤロスラフスキー (en:Emelian Yaroslavsky) や、ソロモン・ロゾフスキー(後に外務人民委員代理を歴任)と出会った。ヨシフは協議後に、ツァーリに反抗的な地域をコサック軍が再び抑えようとしているグルジアへ戻った。トビリシにて、ヨシフとメンシェヴィキ党員は将軍のフョードル・グリーアザノフ (Fyodor Griiazanov) の暗殺を目論み、1906年3月1日に実行に移した。ヨシフは金品強要、銀行強盗、金を強奪するなどの行為を通して、ボリシェヴィキのために金を集め続けた。

    1906年4月、ヨシフはロシア社会民主労働党第4回大会に出席した。ヨシフはこの大会で、将来の国防人民委員および最初の元帥となるクリメント・ヴォロシーロフ、チェーカーを設立するフェリックス・ジェルジンスキー、そしてレーニンの死後に権力を共有するグリゴリー・ジノヴィエフと出会う。また同時期にボリシェヴィキの協議で、「銀行強盗禁止」が賛成多数で可決された。この決議は、資金集めの手段に銀行強盗を行っていたヨシフを動揺させた[15]。

    1906年7月28日、活動の傍らヨシフはエカテリーナ・スワニーゼと結婚する。1907年3月31日、エカテリーナはヨシフの最初の子供であるヤーコフ・ジュガシヴィリを出産するが、その数ヵ月後にチフスに罹患して12月5日に死亡した。ヨシフは深い悲しみに打ちひしがれ、妻の死は彼を一層に非情にした。彼は友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った[15]。妻と入れ替わるようにして生まれた息子のヤーコフを疎み、生涯冷淡な態度で接した。

    レフ・トロツキー
    家庭的不幸の一方、政治面では立身を続けて1907年にロンドンで開かれたロシア社会民主労働党第5回大会にレーニンと共に出席する[23]。この大会では、レーニン派のボリシェヴィキの支配権の強化と、ロシアでの共産主義革命のための戦略について討議した。ヨシフはここで、レフ・トロツキーと初めて出会う。ヨシフはすぐにトロツキーを嫌うようになり、トロツキーを「美男子だが役に立たない」と評した[15]。大会後、ヨシフはメンシェヴィキによる支配と反目で満ちているグルジアを離れ、活動の中心地をロシアに変え始め、ロシア語を書き始めた。

    トビリシに戻ったヨシフは、とてつもない銀行強盗の準備をした。銀行業務事業の仕事への接触を通じて、6月に、町の中心にある帝国銀行に大金が届くことをヨシフは耳にした。ボリシェヴィキ内で銀行強盗が禁止となったため、ヨシフは計画を一時的に断念していた。1907年6月26日、発砲と手製爆弾による轟音がエレバンスクエアで轟いたとき、ヨシフの仲間たちは武装した輸送隊を待ち伏せていた。およそ40人が死んだが、ヨシフと仲間たちは25万ルーブル(今日の価格でおよそ340万ドル)を持ってどうにか逃げ延びた[15]。その2日後、ヨシフは家族と共にトビリシから立ち去った。この国立銀行からの金塊強奪を成功させたことが、レーニンの信頼を得る契機となっている。[24]スターリンは計画全般を指揮したが、実行には参加していない。フィンランドからジュネーヴへ逃れたレーニンに、取り巻きが金を届けている。銀行強盗を禁止した(さらに略奪品の割り当てを得られなかった)メンシェヴィキは憤慨し、容疑者を調査した。事件は今後ヨシフに難儀をもたらすが、追放の危機は免れた。

    逮捕・流刑 編集


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    ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日[1] – 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人。同国の第2代最高指導者。一般に広く知られているスターリンという姓は「鋼鉄の人」を意味する筆名であり、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語: Джугашви́ли、グルジア語: ჯუღაშვილი)である。

    ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン
    Иосиф Виссарионович Сталин (ロシア語)
    იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი (グルジア語)

    CroppedStalin1943.jpg
    1943年・テヘラン会談におけるスターリン
    Flag of the Soviet Union (1936-1955).svg ソビエト社会主義共和国連邦
    連邦共産党書記長
    任期
    1922年4月3日 – 1953年3月5日
    前任者 ヴャチェスラフ・モロトフ(筆頭書記)
    後任者 ニキータ・フルシチョフ(第一書記)
    Flag of the Soviet Union (1936-1955).svg ソビエト社会主義共和国連邦
    人民委員会議議長
    ソビエト連邦閣僚会議議長
    任期
    1941年5月6日 – 1953年3月5日
    第一副首相 ニコライ・ヴォズネセンスキー
    ヴャチェスラフ・モロトフ
    前任者 ヴャチェスラフ・モロトフ
    後任者 ゲオルギー・マレンコフ
    Flag of the Soviet Union (1936-1955).svg ソビエト社会主義共和国連邦
    国家防衛委員会議長
    任期
    1941年7月19日 – 1946年2月25日
    総理 自身
    前任者 セミョーン・チモシェンコ
    後任者 ニコライ・ブルガーニン
    ソ連共産党書記
    任期
    1922年4月3日 – 1953年3月5日
    政治局員
    任期
    1919年3月25日 – 1953年3月5日
    ソ連共産党組織局員
    任期
    1919年1月16日 – 1953年3月5日
    個人情報
    生誕 1878年12月18日
    Romanov Flag.svg ロシア帝国
    グルジア地方(現ジョージア国)、ゴリ
    死没 1953年3月5日(74歳没)
    ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦内、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
    モスクワ市、クンツェヴォ・ダーチャ
    墓地 ロシアの旗 ロシア
    モスクワ市、クレムリン共同埋葬地
    市民権 グルジア系ロシア人
    政党 ロシア社会民主労働党
    →ボリシェビキ派
    →ソビエト連邦共産党
    配偶者 エカテリーナ・スワニーゼ (1906–1907)
    ナジェージダ・アリルーエワ (1919–1932)
    子供 ヤーコフ・ジュガシヴィリ
    ワシーリー・ジュガシヴィリ
    スヴェトラーナ・アリルーエワ
    宗教 無神論(棄教者)
    署名
    兵役経験
    所属組織 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
    部門 ソビエト陸軍
    軍歴 1943–1953
    最終階級 元帥 (1943–1945)
    大元帥 (1945–1953)
    指揮 全軍指揮 (最高司令官)
    戦闘 ロシア内戦
    第二次世界大戦
    冷戦
    受賞 Hero of the USSR.png Hero of Socialist Labor medal.png
    目次
    人物概要 編集

    グルジア語名იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი(イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ)としてロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市で生まれる。正教の神学校で教育を受ける[2]が、のちに棄教、無神論に転向[3]、15歳にしてマルクス主義に基づいた革命運動に参加する。

    ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与。1924年、レーニン死後に起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることで後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。

    以降、人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議(ロシア語版)議長 を1941年から1953年に死没するまで務めたほか、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した[1][4]。

    1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した[5]。

    一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いることになり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上[6]、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた[6]。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑あるいは追放された[7]。

    1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり[8]、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻は第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国の日本とも日ソ中立条約を結んだ。

    1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦でモンゴルの独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州と内蒙古、日本の北方領土や朝鮮半島北部まで攻め落とした。

    連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[9][10]、国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[11]。ヤルタ会談とポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦で中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。

    1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、核武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。

    死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。

    その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[12]と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある[13]。特にスターリン崇拝が強いのは隣国のベラルーシである。

    生涯 編集

    生い立ち 編集
    父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ 父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ
    父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ
    1878年12月18日、ヨシフ・スターリンはヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ(グルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)として[1]、ロシア帝国支配下のグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市に生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ[14]は靴職人、母ケテワン・ゲラーゼは農奴出身のカルトヴェリ人という貧しい家系であった[15]。両親の第3子であったが2人の兄は幼児で死没しているため、実質的には長男として育てられた[15]。

    彼の生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった[15]。父ヴィサリオンは地元でも評判の職人だったがアルコール依存症を患い、しばしば妻や子供に暴力を振るった[16]。家計は次第に傾いていき、幼少期だけで9回も転居を繰り返した[15]。7歳の時には天然痘に罹患する不幸にも遭い、助かったものの皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度に亘って馬車に撥ねられて大怪我を負い[17]、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。

    ヨシフは10歳の時、グルジア正教会からの推薦を受け、教会が運営する聖職者養成の初等神学校に進む。信心深かった母は大いに喜んだが、父は息子に靴職人を継がせる望みが絶たれるのを恐れて学業に反対した。父ヴィッサリオンは母に「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と言っていたという[18]。結局、父は別居という形で一家から離れていったが[15]、後に息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなど抵抗を続けていたという[15]。

    神学校でもグルジア系ロシア人は差別を受け、公用語であるロシア語の使用が強制されていた。ヨシフは度重なる父の反対や怪我を乗り越えつつ勉学に励み、この経歴から聖書を隅から隅まで読んだといえる唯一の独裁者である[19]。やがて優等生として認められるようになったが、マルクス主義に傾倒したことで神学に対する疑問を抱き始めていったとされている[20]。神学校の記録では、1896年、禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持、1898年には、朝の祈祷の欠席や規律違反、反抗的態度などで、度々注意や処罰を受けており問題行動が目立っていた[21]。1899年、司祭叙任を目前にしながら授業料不足を理由に神学校を退校している[22]。

    少年期の肖像画

    1902年に撮影された写真

    政治活動 編集
    革命家への転身 編集
    司祭教育を放擲したヨシフは、トビリシの中央気象台にて気象局員の仕事に就く。給料は月に20ルーブルという比較的安月給であったが、仕事の負荷は軽かった。勤務の傍ら、ロシア社会民主労働党の地方組織に参加する。ヨシフはストライキを組織し、示威運動を指導してスピーチを行った。ほどなくしてヨシフは、ツァーリ秘密警察のオフラーナの注意を受けた[15]。この頃、オフラーナのファイル内の神学校時代の履歴を基に「ロシア側のスパイ活動を継続し随時報告」するようにとの指令の確認が行われた。このことを以ってスターリンの行動に当時の主流派と違ったスタンスのいわば反党的なバイアスを感じる同僚から二重スパイの感触が拭い去られ難く常にマークされていた。後年それを暴露され、公になることを怖れ、混乱下にある共産党内の粛清に至る、云々という心理的な背景を語る1970年代のスターリン研究書には書かれていた。

    1901年4月3日の夜、オフラーナはトビリシにて、ロシア社会民主労働党の多くの指導者を逮捕したが、ヨシフは気象台でオフラーナの諜報員が待ち伏せしているのを見つけたことで捕獲を免れた。1901年に中央気象台を辞めたあとは、地下組織に潜って政治活動を行い、友人、支持者、そして党からの寄付金で生活した。ヨシフはバクーに本拠を置く過激な新聞社「Brdzola」で革命の記事を書き始めた[15]。

    同年10月、ヨシフはバトゥミに逃れ、精油所を所有しているロスチャイルド家で働く。その地で労働者を組織したヨシフは、1902年に精油所で起こった火事に巻き込まれた際に、経営者を騙して労働者に賞与を渡させることを目論んだ。しかしながら、経営者は放火を疑ったため、支払いを拒否した。これは、労働者を組織したヨシフの逮捕、そして街のコサックとの衝突という一連のストライキに至るのであった。刑務所内の仲間を脱獄させる試みの一つとしてコサックが介入したとき、スト参加者13人が殺された。ヨシフは、死者を殉教者のように描写した小冊子を配布した。1902年4月18日、当局はついに、密会の場でヨシフを逮捕した。裁判では、暴動を指揮したことについては証拠不十分として無罪となったが、トビリシでのヨシフの活動を当局が調査している間は拘留された。1903年、当局はヨシフをシベリアへ3年間追放することに決めた[15]。

    非合法活動 編集
    1903年12月9日、ヨシフはシベリアのイルクーツク州にあるノヴァヤ・ウダ (Novaya Uda) という街にいた。この間に、ロシア社会民主労働党内で、レーニン派のボリシェヴィキとユーリー・マルトフ派のメンシェヴィキという、対立する2つの派閥ができたことを聞いた。すでにレーニンの賞賛者であったヨシフは、レーニンの党派に加わることを決めたが、虚偽の書類をどうにか手に入れた直後、1904年1月17日に列車に乗ってシベリアから逃亡し、その10日後にトビリシに到着した[15]。なお、獄中にいる中、ヨシフは社会民主労働党の委員に選ばれている。

    収入が無く、仲間との付き合いで生活していたヨシフは、仲間の1人から、のちにレーニンの死後にソ連の共同統治者となるレフ・カーメネフを紹介された。この頃のヨシフは、国際的に大多数のマルクス主義者同士での亀裂を引き起こしたグルジア社会民主党 (en:Georgian Social Democratic (Menshevik) Party) を支持していた。追放の危機に瀕していたヨシフは、「信条」を書くことを強制され、彼の書いた論文は破棄された(レーニンはこの論文を手元から遠く離し、ヨシフがソ連の統治者となった時、この「信条」の原稿を全部破り捨てようとした。これを読んだ人の多くは銃殺された)[15]。翌月、日本とロシアとの間で日露戦争が勃発した。結局ロシアの敗北に終わったこの戦争は、ロシア経済に厳しい重圧を、グルジア国内に多大な不安をもたらした。ヨシフは党のために、政治活動を行っているグルジアの向こう側に旅に出かけ、誹謗活動と陰謀を通して、メンシェヴィキ党員を弱体化させるために働いた。ヨシフの努力は、レーニンを初めて注目させた。

    1905年1月22日、首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件が発生したとき、ヨシフはバクーにいた。この一連の出来事の一部は、ロシア革命勃発の引き金を引いた。暴動、小作農の反乱、民族虐殺はロシア国内に広まった。同年2月、少数民族のアゼルバイジャン人とアルメニア人が、バクーの街でお互いを虐殺していた。武装したボリシェヴィキの隊を指揮したヨシフは、党の資金調達のために保証金をゆすり取り、印刷機材を盗んだ。その後、ヨシフは西の方へ向かい、グルジアで圧倒的支持を受けていたメンシェヴィキ党員に対する活動を続けた。鉱山の街チアトゥラにて、ヨシフとメンシェヴィキ党員の両者は炭鉱労働者からの支持を争った。メンシェヴィキ党員たちの大胆な雄弁よりも、明白で簡潔な話し方をするヨシフを好んだ鉱夫たちは、後者を選んだ[15]。チアトゥラの街から、ヨシフはグルジア全域でボリシェヴィキの民兵を組織し、武装させたが、彼らと共に富裕層の間で保証金をゆすり取り、コサック、警官、そしてオフラーナに対してゲリラ戦を仕掛けた。

    妻エカテリーナの遺体を見つめるスターリン(一番右)(1907年12月8日)
    同年、ヨシフはトビリシにて、自身と同じグルジア系で、仕立て屋の娘だったエカテリーナ・スワニーゼ (en:Ekaterina Svanidze) と出会う。

    1905年12月、ヨシフとほかの活動家2人は、フィンランドのタンペレにて開催されたボリシェヴィキ協議会で、カフカース代表に選出された。1906年1月7日、ヨシフはこの地で初めてレーニンと直接出会った。ヨシフはレーニンの人格と知性に感動したが、レーニンの言説に反駁することを恐れなかった[15]。ヨシフは、ドゥーマが最近作った選挙に参加するというレーニンの提案に反対した。ヨシフはレーニンに認められた。ヨシフはこの協議で、将来の指揮官エメリアン・ヤロスラフスキー (en:Emelian Yaroslavsky) や、ソロモン・ロゾフスキー(後に外務人民委員代理を歴任)と出会った。ヨシフは協議後に、ツァーリに反抗的な地域をコサック軍が再び抑えようとしているグルジアへ戻った。トビリシにて、ヨシフとメンシェヴィキ党員は将軍のフョードル・グリーアザノフ (Fyodor Griiazanov) の暗殺を目論み、1906年3月1日に実行に移した。ヨシフは金品強要、銀行強盗、金を強奪するなどの行為を通して、ボリシェヴィキのために金を集め続けた。

    1906年4月、ヨシフはロシア社会民主労働党第4回大会に出席した。ヨシフはこの大会で、将来の国防人民委員および最初の元帥となるクリメント・ヴォロシーロフ、チェーカーを設立するフェリックス・ジェルジンスキー、そしてレーニンの死後に権力を共有するグリゴリー・ジノヴィエフと出会う。また同時期にボリシェヴィキの協議で、「銀行強盗禁止」が賛成多数で可決された。この決議は、資金集めの手段に銀行強盗を行っていたヨシフを動揺させた[15]。

    1906年7月28日、活動の傍らヨシフはエカテリーナ・スワニーゼと結婚する。1907年3月31日、エカテリーナはヨシフの最初の子供であるヤーコフ・ジュガシヴィリを出産するが、その数ヵ月後にチフスに罹患して12月5日に死亡した。ヨシフは深い悲しみに打ちひしがれ、妻の死は彼を一層に非情にした。彼は友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った[15]。妻と入れ替わるようにして生まれた息子のヤーコフを疎み、生涯冷淡な態度で接した。

    レフ・トロツキー
    家庭的不幸の一方、政治面では立身を続けて1907年にロンドンで開かれたロシア社会民主労働党第5回大会にレーニンと共に出席する[23]。この大会では、レーニン派のボリシェヴィキの支配権の強化と、ロシアでの共産主義革命のための戦略について討議した。ヨシフはここで、レフ・トロツキーと初めて出会う。ヨシフはすぐにトロツキーを嫌うようになり、トロツキーを「美男子だが役に立たない」と評した[15]。大会後、ヨシフはメンシェヴィキによる支配と反目で満ちているグルジアを離れ、活動の中心地をロシアに変え始め、ロシア語を書き始めた。

    トビリシに戻ったヨシフは、とてつもない銀行強盗の準備をした。銀行業務事業の仕事への接触を通じて、6月に、町の中心にある帝国銀行に大金が届くことをヨシフは耳にした。ボリシェヴィキ内で銀行強盗が禁止となったため、ヨシフは計画を一時的に断念していた。1907年6月26日、発砲と手製爆弾による轟音がエレバンスクエアで轟いたとき、ヨシフの仲間たちは武装した輸送隊を待ち伏せていた。およそ40人が死んだが、ヨシフと仲間たちは25万ルーブル(今日の価格でおよそ340万ドル)を持ってどうにか逃げ延びた[15]。その2日後、ヨシフは家族と共にトビリシから立ち去った。この国立銀行からの金塊強奪を成功させたことが、レーニンの信頼を得る契機となっている。[24]スターリンは計画全般を指揮したが、実行には参加していない。フィンランドからジュネーヴへ逃れたレーニンに、取り巻きが金を届けている。銀行強盗を禁止した(さらに略奪品の割り当てを得られなかった)メンシェヴィキは憤慨し、容疑者を調査した。事件は今後ヨシフに難儀をもたらすが、追放の危機は免れた。

    逮捕・流刑 編集
    革命活動を再開したヨシフは、より多くのストライキと社会運動(扇動)を組織した。今度は、ムスリムのアゼルバイジャン人と、バクーに住むイラン人 (en:Iranian peoples) の労働者を重点的に取り扱った。ヨシフはイスラム社会民主党と呼ばれる、ムスリムのボリシェヴィキグループの設立を手伝った。さらに、人的資源と兵器によるイラン立憲革命を支持し、ペルシアを訪問した際にはパルチザンを組織している。ヨシフは、黒百人組(ツァーリを支持する右翼)の一員の殺害を命じ、バクーの石油王を誘拐して身代金をゆすり取った。ヨシフは贋金造りと強盗も行っていたが、メンシェヴィキ党員を妨害するために犯罪者一味の友になり、彼らを利用した。ヨシフと悪漢たちはボリシェヴィキの知識人たちをうろたえさせたが、ヨシフの影響力はあまりにも強かった[15]。オフラーナの追跡を受けたヨシフは、1908年4月7日に逮捕された。彼は7か月間投獄されたのち、2年間のシベリアへの流刑を宣告された。彼は1909年3月の初期にソリヴィチェゴドスクの村に到着した。流刑となって7か月後、ヨシフは女装してサンクトペテルブルク行きの電車に乗って逃亡し、7月後半にバクーへと戻った[15]。

    ボリシェヴィキは、帝国内の圧制や方々の知識人たちの間での内部抗争によって、崩壊寸前の状態にあった。自暴自棄になったヨシフは、メンシェヴィキとの和解を主張したが、レーニンはこれに反対した。ヨシフは帝国内部からロシア社会民主労働党のロシア・ビューローの創設を要求した。ヨシフはすぐに、ボリシェヴィキ内に帝政支持の間者がかなり潜入していることを悟った。ヨシフは、党内で多くの無秩序を引き起こした“「本物の裏切り者」の根絶やしに失敗した「裏切り者」”-オフラーナの記録によって明らかになった- を捜し始めた[15]。

    1910年4月5日、ヨシフは再びオフラーナに逮捕された。以前のソリヴィチェゴドスクへの流刑を完了させるためにコーカサスからの5年間の追放を宣告された。同年9月、ヨシフは同地に追放された。1911年の早期に同地から一時的に逃げ出しているが、金をどうしても必要としていた別の追放された人物が逃げ出したことで、ヨシフは同地に戻らざるを得なかった(1937年、ヨシフはこの人物を銃殺している)。ヨシフは、流刑中にマリア・クザーコヴァという女主人と不倫をしており、隠し子のコンスタンティン・クザコフを儲けている[25]。マリアがまだ妊娠中の1911年7月9日、ヨシフは流刑から解放された。同年の7月末期に、ヨシフは2か月間住むよう命ぜられたヴォログダに移住した[15]。

    スターリンについての情報カード。サンクトペテルブルクのツァーリ秘密警察のファイルより1911年[15]
    1912年1月のプラハ党協議 (en:Prague Party Conference) で、ロシア社会民主労働党からボリシェヴィキを指導してきたレーニンは、分離したボリシェヴィキ党(のちのソビエト連邦共産党)を創立した。中央委員は選ばれたが、その内の一部の党員がロシアに戻ったときにオフラーナに逮捕され、中央委員会の党員に扮したオフラーナのスパイであるロマン・マリノフスキーによって密かに裏切られた。レーニンとジノヴィエフは空白状態を埋めるため、中央委員にヨシフを選出した[26]。ヨシフがこのことを知らされたのは、同年の2月末期にヴォログダを発ったときのことであった。

    1912年4月、ヨシフは、ボリシェヴィキによる機関紙の発刊を管理する新聞社のズヴェズダがあるサンクトペテルブルクに移住したが、機関紙の発行を月刊から日刊に変え、「ズヴェズダ」を「プラウダ」へ改名することを決めた。最初の機関紙は、同年5月5日に発刊された。その後ほどなくして、ヨシフは再びオフラーナに逮捕され、1912年7月にシベリアへ3年間追放されることになった。今度はナルイム (en:Narym) の小さな村だった。到着後のわずか38日後にヨシフは逃亡した。これはヨシフが経験した流刑生活の中で最も短い期間である[15]。9月にはサンクトペテルブルクへ戻った。

    三度目の流刑 編集
    ヨシフは共産主義運動の奮闘と救済を願って、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの調停のために努力した。発刊したプラウダの社説で両者の和解を主張し、密かにメンシェヴィキの指導者と何度も会った。これに激怒したレーニンは方策について議論するため、ヨシフを2度クラクフへ呼び出した。1912年の年末の2度目の訪問の際に、ヨシフはプラウダの編集者の職を解任されたが、ボリシェヴィキ党のロシア・ビューローの指導者となった。レーニンはヨシフに、少数派であるボリシェヴィキの立場について明らかにする論文を書くよう頼んだ。その後、ヨシフはレーニン、裕福なボリシェヴィキの夫婦とともに数週間過ごした。ヨシフはこの間に、将来のソ連政府の有力な政治家となるニコライ・ブハーリンと初めて出会う。2人は国籍(および民族)の問題について議論した。

    1913年3月、ヨシフは『マルクス主義と民族問題』という表題の論文を完成させた。この論文は「K.スターリン」という筆名で発表された。この「スターリン」という筆名をヨシフが使ったのはこのときが最初である。これより、ヨシフは「鋼鉄の人」を意味する筆名「スターリン」を名乗り始めた。


  9. 匿名 : 2017/12/04(月) 22:32:28 ID:c3NzcwNzg

    割と短くて読みやすい

    氏ね


  10. 匿名 : 2017/12/04(月) 22:32:44 ID:gyNDg2NTM

    最近、コメント欄が見づらい


  11. 匿名 : 2017/12/04(月) 22:33:21 ID:UxMjgwOTA

    勉強になりました


  12. 匿名 : 2017/12/04(月) 22:33:46 ID:QwNzY0MTk

    お疲れ様です。


  13. 匿名 : 2017/12/04(月) 22:34:26 ID:E1NzAwMjI

    無課金にとっては60連は毎回は手出せないから
    約30連分で好きなOB手に入れれるランキングは有難い


  14. 匿名 : 2017/12/04(月) 22:39:03 ID:k0MzMzMjc

    削除してくれないかな。本当見るのやめるよこのサイト


  15. 匿名 : 2017/12/04(月) 22:49:17 ID:E5OTI1MzQ

    星6を800周して400レベの奴いたよ


  16. 匿名 : 2017/12/04(月) 23:14:23 ID:I4NjE5ODM

    長文ニキwww


  17. 匿名 : 2017/12/04(月) 23:37:46 ID:M2NDg0NzU

    学生かニートくらいしかこんなコメント欄見にこないよな
    ほんと社会の底辺感あるなここw


  18. 匿名 : 2017/12/05(火) 00:16:42 ID:Y0MzgyMTc

    はい
    少なくとも、4箇所間違えてますよ。


  19. 匿名 : 2017/12/05(火) 00:47:16 ID:A0NjM2MDg

    コメ非表示でけへんのか?


  20. 匿名 : 2017/12/05(火) 00:49:26 ID:k2NDU3NjA

    コピーして貼り付けるだけなのに荒らしにもなってないとかさてはお前早漏の我慢のできないヘタレだな


  21. 匿名 : 2017/12/05(火) 00:56:31 ID:I5MzU1ODM

    管理人さんに提案。威計業務妨害で警察に被害届出して人生追い詰めて差し上げては?こういうバカは。


  22. 匿名 : 2017/12/05(火) 01:55:27 ID:g1NDY4ODc

    暇だな


  23. 匿名 : 2017/12/05(火) 06:26:53 ID:IwNjAzMDg

    管理人、仕事しろよ。


  24. 匿名 : 2017/12/05(火) 07:04:29 ID:cyMjk4NDM

    ※20
    しゃしゃんな童貞


  25. 匿名 : 2017/12/05(火) 07:30:49 ID:U2ODk1NjA

    ※17
    えげつないブーメラン投げてるけど、大丈夫か?
    それとも新手の自虐か?


  26. 匿名 : 2017/12/05(火) 17:34:39 ID:U3MTgyMTk

    ぽけりん管理人2世


  27. 匿名 : 2017/12/05(火) 18:39:02 ID:U3MTgyMzA

    嫌がらせにもほどがある


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